富士乃湯について
富士乃湯 由来記
信州松本浅間温泉、ここ富士乃湯がかつては「はせをの湯」と呼ばれてゐたことを知るものはすくない。「はせを」は「芭蕉」で、かの俳聖松尾桃青芭蕉ゆかりの宿といふことになる。元禄元年八月十一日、越人と下人をともなひて信州へ。いはゆる「更科紀行」の旅であった。美濃出発が何処であったかは定かでないが、毎日十里以上歩かねばならない厳しい旅程であったらしい。その為にこの旅のところどころで馬をも利用してゐる。木曽路を経て更科の月を観るのがその主目的で、半年後に決行される「奥の細道」への足ならしなひしは、その心構えを確かなものとするためのものであったらう。風雅に生涯をかけて一途に彼方へ旅立たうと覚悟定めて信濃路に杖ひゐたのである。
八月十一日 大久手泊 九里以上
同 十二日 美戸野泊 十二里
同 十三日 宮越泊 十二里 同
十四日 松本泊 十二里
同 十五日 姥捨泊 十一里
当、富士乃湯四代目主人、二木与五兵衛。庄屋と山廻り役を兼ねるほどに信望厚く、松本城主水野家三代忠直より裃を拝領、温泉湯口の鍵預かりをつとめてゐる。また二木家二代久左衛門が妻女を水野家臣白木氏よりとりよく松本藩に忠勤尽くししてゐたことも、この湯をいっさう格高きものとしてゐた。その上、与五兵衛は雅趣に生きた風流人士。学道にすぐれて寺子屋を開設し地元の子供たちに、より多くの知識、思慮分別を高めやうとしてゐる。藩主忠直の治世は寛永、延宝から天和、貞享をへて元禄正徳の四十余年に及び、その間、貞享三年秋の嘉助騒動など駘蕩的泰平のかげに幕藩体制の矛盾が兆し始めててもゐた。その始末、いかばかりかと思案する幕府の密偵を受けた芭蕉にとってみれば、処刑から三回忌にあたり、元禄と改元され一応の安定を保ってゐる松本藩の内状をさぐるべくこの旅が企画されたのである。
ほうと一息つきて浅間の湯に浸る芭蕉主従三名。夕餉の膳に並んだものといへば里芋の煮物、お煮かけといふ地粉うどん。それにもましてもてなしの地酒が胃の腑にしみる。明日は仲秋の名月、予定通り姥捨で観月の望みかなふやもしれないのである。
身に泌みて大根からし秋の風 はせを
昼食に本山宿で食したからみ大根の味が想ひだされこんな句となったのである。
ひょろひょろと尚露けしやをみるへし はせを
この叙情は歌枕として古歌にゆかり深い束間之美湯、浅間温泉でなければならぬ。繊細にして優美な路傍の風情、芭蕉のいふ「細み」ないしは「軽み」へと静かに沈潜し昇華するものであった。 富士乃湯は不老不死、すなわち不尽(不二)に通ひ、どこまでも伸びゆく彼方をあこがれるこころの形象である。その具現化が湯を浴びることによりてわがこととなる。さらに道中(旅)の安全を祈願しやうとしたものである。天恵に感謝しつつ甘受する敬虔な気持ちが「はせを」芭蕉ゆかりのこの湯を崇高な霊峰富士山を永遠に仰ぎ見ることを期待して富士乃湯に変えたのであろう。以上その由来記である。






